2002年ちょっとひとやすみ  2003年ちょっとひとやすみ 2004年ちょっとひとやすみ  2005年ちょっとひとやすみ

  2006年ちょっとひとやすみ  2007年ちょっとひとやすみ  2008年ちょっとひとやすみ  2009年ちょっとひとやすみ

  2010年ちょっとひとやすみ  2011年ちょっとひとやすみ  2012年ちょっとひとやすみ  2013年ちょっとひとやすみ

2014年ちょっとひとやすみ  2015年ちょっとひとやすみ  2016年ちょっとひとやすみ  2017年ちょっとひとやすみ

2018年ちょっとひとやすみ  2019年ちょっとひとやすみ  2020年ちょっとひとやすみ  2021年ちょっとひとやすみ

  

最新号へ


19/01/01(No.981)

▼新年明けましておめでとうございます。カトリック新聞に前田万葉枢機卿様のインタビュー記事が載っていた。予想はしていたが、大司教の時よりも激務のようだ。お体に十分留意してください。健康のために短いお祈りをささげます。
▼12月29日から教会敷地内に設置されている「案内所」が年末年始の業務を閉めている。年に一度、「はい、田平教会です。1月3日まで拝観を停止しております。外観のみ見学ください」と案内をする時期だ。もちろん主任司祭が案内する。
▼12月29日、この記事を書いている時点で案内業務の電話がかかったのは一本。今境内内で歩いて回っている家族?が一組。この家族の子供は公園か何かと混同しているのか、すごくはしゃいだ声だ。誰も声をかけない期間だから、公園と見間違えてくる人もいるのかも知れない。
▼これからすぐに黙想会が始まる。1月2日は、帰省者のための黙想会が田平教会の恒例行事だ。初めは「毎年黙想会をするのか〜」とため息をついていたが、ものは考えようで、ここで話したことがあとで実になることもあるだろうから、黙って引き受ける。ちなみに今回話す内容の半分は、佐世保地区でも講師として話すことになっている。
▼自分の中では、今年は「献堂百周年を受けて、一歩前に出る田平教会信者になりましょう」というテーマを持っている。私たちが受け継いだ信仰の宝物を、「守る」姿勢で接するよりも、「一歩前に出て、人々に示す」姿勢で接して欲しいからだ。
▼そういうつもりで、来月の教会新聞「瀬戸山の風」には書こうと思っている。思いついたことを書く。何度か読み返してみて、「これで行こう」と思ったらテーマと言うよりも思ったことを書く。「いきなり書いた」「相談して欲しかった」そう思う人は、動きが一歩遅いのではないだろうか。


19/01/06(No.982)

▼銀祝の祝いに佐世保の親戚から贈ってもらった「黄金」。ではなく「ルームランナー」。一昨年はみっちり使ったが、去年の司祭団マラソン大会を終了したらパタッと使わなくなった。申し訳ないと思いつつ、もう一度使うきっかけがなかなか来なかった。結局今年のマラソン大会に向けて、一年ぶりに使う羽目に。
▼いろいろ細かな設定はないが、10分、20分、30分の設定タイムがあり、4種類の運動メニューがある。これだけあれば、自分のレベルなら十分である。もし使い続けて故障したら、十分使ったということで報告して、その時点でさらに上級の機械を買ってもよい。
▼寒い時期にトレーニングすると、お風呂が困る。お湯をためておくにも、自動で止まらないので見に行かなければならない。20分でお湯がたまるが、トレーニングは40分、できれば50分続けたい。すると20分使ってお湯をために行き、戻って20分続け、お湯を止めに行ってさらに戻って10分。この行ったり来たりがどうも。
▼快適に暮らすために住まいの改築をする人もいると思う。幸いに風呂場は文化財に含まれない。改築して快適なお風呂環境を利用できる期間は限られているが、私の時代にしたことで恩恵を受ける人たちがまだまだいる。そういうことだ。



19/01/13(No.983)

▼カトリック教会の典礼用の聖書は、新共同訳聖書が使われている。カトリック教会にはフランシスコ会訳聖書という立派な聖書があるが、未だ典礼用の聖書に採用されていない。新共同訳聖書の使用が長くなってきたので、切り替えるのはさらに難しそうだ。
▼長く同じ聖書を朗読していると、その聖書の引用句を覚えてしまう。新共同訳聖書とフランシスコ会訳聖書とではニュアンスの違いがあると思うのだが、私が思い出せるのは新共同訳聖書だけになってしまった。フランシスコ会訳聖書を親しく読む努力が足りない。
▼そう言えば、中学生の勉強の始めは、天主の十戒を唱えさせている。「初めの祈り」でない理由は二つあって、「初めの祈り」はもう練習する必要がないだろうということと、この子たちが頻繁に天主の十戒を唱えて、覚えて欲しいからだ。堅信組の祈りの試験の遠い準備でもある。
▼似たようなことだが、私もふだんの聖書朗読に、フランシスコ会訳聖書を読むのが良いかも知れない。新共同訳聖書の朗読はもう十分やってきたのだから、フランシスコ会が心血注いで完成させた日本語訳聖書を体に覚えさせるために、今すぐ取りかからないと間に合わなくなる。
▼自分がどうこうできる問題ではないが、フランシスコ会のこれだけの大作を、日本の司教団はどう根付かせるのだろうか。ちなみに昨年末に「聖書協会共同訳」というのが出版された。新共同訳聖書のようなものだと思うが、今後この聖書がカトリック教会の典礼用聖書として採用されれば、ますますフランシスコ会訳聖書の典礼採用は遠のくのだろうか。



19/01/20(No.984)

▼とうとうトレーニングはルームランナーばっかりになってしまった。外を走りに行くとそれなりの格好をしなければならないし、寒い上に日焼けする。ルームランナーだと30分のトレーニングを30分でこなせるが、外に出るとそうはいかない。まぁ、簡単に言えば怠けているのだ。
▼始めてルームランナーの斜度を利用してみた。1.5度、3度の傾斜をつけることができて、3度の傾斜で使用している。たかが3度だが侮るなかれ。これまでのフラットな状態でのトレーニングより30%くらい負荷がかかっているように感じる。なかなかいいぞ。
▼外を走ると「土曜日は説教を考える時間が欲しいから休み」と簡単に口実を見つけていたが、ルームランナーは短い時間でもトレーニングできるから言い訳はできない。やるか、やらないか。それだけだ。カレンダーにもトレーニングした時間の「30」という書き込みをすることにした。
▼世の中、ブログは掃いて捨てるほどある。最近またブログを追加した。AmebaブログとLineブログ。何かどこかで目にとまる人が、日常生活をいったん足を止めて心を神に向ける場所になれば。説教の原稿は拙いが、理想は高い。
▼水が、ぶどう酒に変わる。平凡な人間が、神の指のわざを届ける道具に変わる。人間は弱くて、間違いも犯すし何者かであるかのような勘違いもする。そんな「ガラクタ」を、神は辛抱強くご自身の道具として使ってくださる。常に、取り扱うことの重さを、忘れない、自分に言い聞かせる、そんな積み重ねで日々を過ごしたいものだ。



19/01/27(No.985)

▼いよいよ司祭団マラソン大会だ。厳しい天気が予想されるが、スタートラインに着く自分の姿は思い描くことができる。たいした練習は積んでないが、正月からほぼ毎日、40分ほどの練習をした。順位争いのレースはできないが、楽しく走って帰りたい。
▼教会報の「瀬戸山の風」に「それでもマラソンに行く『おかしな』理由」として記事を書いた。辛い思いをして、納得していない順位を走る姿に「頑張れ」と声をかけてもらう。自分でも変人だと思う。それでもよい。苦しい思いをして年の初めを乗り切れば、一年の苦労などたいした苦労ではなくなるはず。
▼しかも今年は、司祭団マラソン大会を終えた後も、ルームランナーに乗っている自分を思い描くことができる。今年の収穫はこれかも知れない。司祭団マラソン大会も、かなり長い「毎日の練習」の一環。そういうイメージを描けているので、ことしこそもたついた身体とおさらばだ。
▼金曜日の中学生の教会学校で、「毎日続けることは英雄的行為だよ」と話した。毎日ルームランナーに乗る(およそ150キロカロリーを消費)のを「英雄的行為」とは決して思わないが、またいつか中学生に「英雄的行為」に触れる時に、毎日続けていたら自信を持って「たとえ」として紹介できる。


19/2/3(No.986)

▼今年のマラソン大会は、本気で「通過点」だと思っている。トレーニングをする中で当日を迎え、今日(土)も練習を再開している。カレンダーにもトレーニングに掛けた時間を真面目に記録している。あと1〜2ヶ月もすれば、私の顔はヘルメットの中でも隙間ができるだろう。
▼暴飲暴食もしなくなった。全くしないというわけではないが、トレーニングのおかげなのか、急に体重が増えることもなくなった。あちこち疲労は残るが、痛めて翌日練習を休むという場面は全くない。とても良い状態だ。案外これが唯一心配な点かも知れない。
▼2月5日は日本26聖人殉教者の祝日。教区主催のミサは明日3日に26聖人記念館前の広場でささげられる。都合があって行けない。5日に、田平教会でミサをささげる。この田平教会は26聖人にささげられた教会だ。26人の司祭を輩出することを目指してささげられた教会だ。
▼現時点で22人なので、26人目を見ることは私はないが、いつの日にかそういう日が来て欲しい。そう願ってミサをささげようと思っている。私たちは現実が22人であっても、26人になることを悠然と願ってミサをささげる。
▼「今こういうことをして何になるのか。」今を見て考えればそうだろう。しかし教会の歩みは50年とか、100年の歩みでもある。私は揺らぐことなく、まかれた種が実を結ぶことを信じ、悠然とミサをささげる。



19/2/10(No.987)

▼「イエスのことばに信頼して一歩を踏み出すと、状況は一変する。」果たしてそうであろうか。そうであって欲しい。放蕩息子のたとえは、父親の財産を無駄にしてしまったが、かつて父に愛された日々を思い出し、立ち直った。財産は無駄になったが、父のことばによって生きる者となった。
▼大好きな韓国ドラマの中で、「イ・サン」というのがあって、その中である人物が牢に入れられ、牢の中からこう言う。「大きな権力を手にした者は、転落も早いものだ。今の私がそうであるように、いずれそなたも同じ目に遭うであろう。」野心に駆られた人物が、野心に燃える同じタイプの人に忠告する。そして同じことがドラマでは起こった。
▼私たちは神の手の中にあるのだから、神の言葉に信頼を置いて一歩を踏み出すのでなければ、やはり世の中と同じ目に遭うのではなかろうか。神の言葉に信頼を置いて再出発するために、この世のものをどれだけ失っても、再出発さえできれば。実はそこまでの気持ちには到達していないのだが、そうでありたい。そう信じたい。
▼いよいよプロ野球もキャンプ情報が入り出し、自分もじっとしていられなくなってきた。日南キャンプを視察しに行こう。今年の目玉は長野選手。自分としては、「巨人の看板」を引きずっていないか、その辺を見てみたい。すっかりチームの一員となってチームを盛り上げてくれていたらと、心から願っている。


19/2/17(No.988)

▼大晦日にわたしは決まって一年を振り



19/2/24(No.989)

▼久しぶりに


19/3/3(No.990)

▼大晦日にわたしは決まって一年を振り



19/3/10(No.991)

▼久しぶりに


19/0/0(No.992)

▼大晦日にわたしは決まって一年を振り






ページの先頭へ



19/0/0(No.993)

▼久しぶりに


19/0/0(No.994)

▼大晦日にわたしは決まって一年を振り



19/0/0(No.995)

▼久しぶりに


19/0/0(No.996)

▼大晦日にわたしは決まって一年を振り



19/0/0(No.997)

▼久しぶりに


19/0/0(No.998)

▼大晦日にわたしは決まって一年を振り



19/0/0(No.999)

▼久しぶりに


19/0/0(No.1000)

▼大晦日にわたしは決まって一年を振り



19/0/0(No.1001)

▼久しぶりに



19/0/0(No.1002)

▼久しぶりに



19/0/0(No.1003)

▼久しぶりに



19/0/0(No.1004)

▼久しぶりに



19/0/0(No.1005)

▼久しぶりに



19/0/0(No.1006)

▼久しぶりに



19/0/0(No.1007)

▼久しぶりに